高知交響楽団創設者、古城九州男先生が高知新聞へ寄せられた文章で、昭和62年5月13日と14日付同紙に掲載されました。高知新聞社さまのご快諾により、ここに謹んで掲載させていただきます。


土佐の音楽界昔話(上) 古城九州男

 大正十三年八月、当時県庁前で、現市役所のある所にあった高知病院の耳鼻科長として私は赴任した。

 赴任して間もなく近くの営林局に勤務する小松熊太郎という患者が来院するようになった。この方は大変な音楽好きでバイオリンを弾き、高知フィルハーモニー会の残党であり、昭和六年、私がオーケストラを作った時も、同じ残党であった山形歯科医夫人と率先して加わった。

 同氏の言によると高知市で最初のバイオリン演奏会は神戸の蒲池という人によって開かれたそうだ。また、その当時福岡にバイオリン独習を指導する大日本家庭音楽会というものがあり、その高知支部の主宰者、深瀬常子氏も開いたということである。

 合奏団体としては、当時、既に市商(編者注:高知市立高知商業高校)にブラスバンドはあった。大正八年高知師範学校教諭坂口勇造氏がつくった高知フィルハーモニー会は弦楽合奏の最初のものであり、第二代黒沢隆朝氏が引き継いで、彼が東京に去るまで続いた。黒沢氏は日本的にも有名な音楽家であり、その作曲『浦戸湾上にて』は名作で、大好評を博したそうであるが、同氏も亡く、またその楽譜も失われていることは惜しいことである。

 ただこのフィルハーモニー会はビオラがなく、第一、第二、第三バイオリンとチェロという変形な組織であったそうだ。ビオラという楽器は、昭和六年秋、私が管弦楽団を組織した時、オーボエ、アルトクラリネット、フレンチホルン等とともに初めて高知に入ってきた楽器である。

 ピアノ独奏は土佐高女が大正八年(?)にアップライトピアノを購入したときに、姓名は不詳だが、亡命ロシア人によって演奏されたのが初めてであったそうだ。

 その後、橋本国彦氏の音楽会があり、大正十三年ごろにが高知交響楽団の初代指揮者であった浜田善三郎氏のチェロ独奏会や、コンサートマスターであった長尾良樹氏のバイオリン独奏会もあった。

 グランドピアノは昭和二十五年旧公会堂のこけら落としに日響(N響の前身)が来演した後、故町田昌直博士らの提唱によって初めて旧公会堂に備えられ、昭和二十五年六月十日森木洋子氏独奏、高知交響楽団伴奏でベートーベンのピアノコンチェルトが演奏された。これが真のピアノ演奏会の最初とも言うべきである。

 交響楽は昭和六年秋、浜田善三郎氏を指揮者として市商音楽部出身の橋本、水田、岩谷の諸氏から勧められて私が楽団を組織し、翌七年NHK高知放送局開局記念放送したのが初めてである。

 マンドリンオーケストラは、大正十二年旧制高知高校創立の翌十三年、市村君兄弟が主唱して始まった。

 大正八、九年ごろ素封家であった、旧大川筋の大脇順興氏や片山顕医師会長令息・敏彦氏、土佐教会牧師・砂川氏令息千秋氏らによって、現在の大橋通にあった旧土佐教会の記念館楼上で解説つきのレコードコンサートが盛んに催されていた。

 当時、洋楽レコードは本町、県庁前電停の東南角にあった橋詰時計店しか売ってなかった。大正十五年であったか、ベートーベン第九交響曲が初めてグラモフォンポリドールでレコードになった時、主催者は記憶にないが、その発表会が現・商工会議所の所にあったカフェブラジルの二階で催され、聴衆は超満員であったことを思い出す。

 当時私はグランド前電停北に入る高知教会に出席し、旧称第六小学校訓導岡寛氏をリーダーとする聖歌隊に属していた。そこで岡氏を知った。ちょうどそのころ、私の勤務していた高知病院内科に池内真温氏というバイオリンの名手がいた。それで前期の小松君の主唱でピアノ四重奏を作ろうということになった。当時家庭でピアノを持っている人も無かったが、私の家内が神戸女学院音楽部ピアノ科出身なので高知赴任と同時にピアノを購入していた。更に私が『マイスター・フュル・ディ・ユーゲント』というドイツ版で、第一、第二バイオリン、セロ、ピアノの組み合わせ用に、ベートーベン、シューベルト、バッハ、ハイドン、モーツァルト、メンデルスゾーンの名曲を編曲したものを持っていたので、これ幸いと『ユーテルピアンカツテット』と称し、第一バイオリン池内氏、第二バイオリン小松氏、チェロ私、ピアノ岡氏という編成で合奏を楽しんでいたが、発表会を開こうということになり、錦上花を添える意味で、県立高知高女新卒業生の旧姓・浜本愛子嬢(小説家・浜本浩氏令妹)、土佐高女新卒の浦宗嬢(これは正確ではない)の賛助出演を得て、昭和十四年秋、高知市の公会堂で演奏会を開いた。浜本嬢の『浜辺の歌』(伴奏は岡氏編曲による四重奏)は大喝采を博した。しかし不幸なことに、池内氏は高知病院を辞し、郷里吉良川で開業したので、この合奏団も一回限りの発表会で解散消滅した。(高知新聞 昭和62年5月13日)

土佐の音楽界昔話(下) 古城九州男

 大正中期に東京で某新聞社が新人音楽会と称し、各音楽学校の新卒業生による音楽会を催していたが、これを模して土陽新聞社が、高知、土佐、高坂の旧制高等女学校の新卒業生による音楽会を催したことがあると聞いたことがあるが、詳細は不明である。

 昭和三年夏から五年暮れまで私は九州大学に研究に帰っていたが、その間に紫紅会と称し、男子師範の橋詰利春氏、女子師範の惣田三四司氏、旧制第一高女の多真智子、第二高女の宮田田鶴子、女子師範付属の岡寛氏らによって演奏会が催されたが、種々の理由で一回だけの演奏会で終わった。

 ギターは、長野努氏が昭和六年に早稲田を卒業後に帰高してギター協会をつくり、ギターの宣伝に努め、昭和十一年四月高知新聞社で第一回独奏会を開き、続いて高野寺会館で何回か開いた。

 ハーモニカバンドは平井康三郎先生が旧制土佐中学在学中にリーダーとなって土佐中に存在し、同時に高知工業にもバンドがあり、両校生が共同して公会堂で演奏会を開いた。しかしリーダーを失って自然消滅したのは、惜しいことである。

 高知県音楽界では広く知られていないが、忘るべからざる人は故・岡寛氏と故・高木雅老氏である。

 岡氏は師範学校時代、高知で最初にフィルハーモニー会でチェロを弾いただけでなく、小学校音楽教育の第一人者であって、夏休みにはダンスの女先生と組んで唱歌教育の講習会を開いていた。今日七十歳ぐらいの旧女先生に講習を受けた人がまだたくさんいらっしゃると思う。また、女子師範学校時代には指板に階段状の音程を示すマークのついた小型のバイオリンを用いて、小学生にバイオリンを教え、合奏もさせていた。夭折(ようせつ)したのは惜しい人である。

 昭和八年、わが交響楽団が主宰して壇上に遺影を飾って追悼音楽会を開いたら、師範、女子師範、同付属、第三、市商等の参加出演があって公会堂に超満員の聴衆があった。後つぎなく潮江山に寂しく眠っているのは悲しいことである。

 高知県には弘田龍太郎、平井康三郎、武政英策氏ら著名な作曲家がいるが、知られざる人に高木雅老氏がある。師範出身で潮江小学校の音楽の先生であったが、土佐の民謡を採譜した最初に人であり、またたくさんの歌曲を作曲したが、それらは皆、静岡市の成楽会から発行していたので、全国的には高知におけるより知られていたかもしれない。一時、わが交響楽団の指揮もしていたが、前回の大戦の初期に招かれて静岡に行かれ、間もなく文通が途絶えたのは、あるいは応召、戦死なさったのではないかと思う。

 もう一人忘れられない人は、高知新聞文化部の井上勝喜記者である。常に和服に袴(はかま)を着用し、特に音楽会には必ず出席して、報道とともに、必ず適切な批評を下しておられた。この人が生きておられたら高知県音楽界のことはことごとく明らかであったであろう。(高知新聞 昭和62年5月14日)