昭和43年(1968年)

体育舘落成記念音楽会
3月3日(土) 鏡野中学校体育棺

1 「カルメン組曲」より(ビゼー)
   1.前奏曲
   2.衛兵の交代
   3.アラゴネーズ
   4.間奏曲
   5.アルカラの竜騎兵
   6.トレアドール
2  バイオリン協奏曲二長調第1楽章(ベートーヴェン)
      独奏 吉川安子
3 交響曲 第8番口短調「未完成」(シューベルト)
4 行進曲「ラデツキー」(ヨハン・シュトラウス)

5 楽しい歌の数々
   1.中国地方の子守唄
   2.めだかの学校
   3.ドレミの歌
   4.旅愁 他

      指揮 池中重彦

 
定期演奏会
6月8日(土)
7時
高知市中央公民館

1 歌劇「後宮よりの逃走」序曲(モーツァルト)
2 ヴァイオリン協奏曲二長調(ベートーヴェン)
      独奏 吉川安子
3 交響曲 第36番「リンツ」(モーツァルト)
4 交響譚詩(伊福部 昭)

      指揮 池中重彦

出演者 52名
   人場者 550人
   入場料 一般150円
       学生100円
古城会長引退の御挨拶
 昭和6年秋、好楽家諸氏の熱情にほだされて楽団結成して以来30有余年。全国でも一、二を争う古い歴史を持つアマチュア楽団となりました。
 思えば苛烈な戦争中でさえ暗幕を引き電灯を遮蔽して、空襲を警戒しながら練習を続けて来た団員の情熱によるものであります。この間会長として経済的援助をおしまず、時間と労力を献げて県の音楽文化のためにいささか貢献をしてきたつもりでおります。私は今年古稀の年となり、視力体力の衰えを覚え、今回病院は楽団練習場共ども、副院長横矢博士(チェロパート)に、会長は井沢博士(ヴァイオリンパート)にお願いして引退することにいたしました。どうか市民の皆様この上とも当楽団が永久に存続して行くよう守って下さることを切に祈ってやみません。

昭和43年6月8日 高知新聞「読者の広場」より

 古城会長と高知交響楽団 正木 暢

 高響も今度の演奏会で36年目を迎える。交響楽団運営の経験者が聞くと驚くと同時に感心する事だろう。
 楽団が長続きすることは、なかなかまれなことだが、特にアマチュアの場合は中心になる人が飛び抜けた音楽好き、つまり音狂(オトキチ)でないと団員を引きつけてまとめて行くことは出来ない。利害や名誉欲ではすぐ消滅してしまう。それに練習場そして団員の音楽に対する情熱の度合い、楽器、楽譜、運営の諸費用、などの問題がある。高響の場合は幸いそれ等すべてに恵まれていた。物質的な必要条件はすべて古城会長が負担され、それへ音楽がメシより好きな連中が居たからこのように長続きすることが出来たのである。
 しかし最近一番の悩みの種は演奏者が十分揃わないことで演奏会を持つこともむつかしくなる。ようやく腕を上げてきた若い団員が居ても、就職、進学、結婚、又家庭の事情等で欠席勝ちになりいつの問にか退団する。又団員同志でも顔が違うように考え方も異る。音楽のためなら協力一致、水も塊らさぬ緊密な団結、というわけにはいかない。むしろその反対で、神経質で個性の強い人間の集団なので、それを纏めて行くためには強力な牽引車が必要だが、その牽引車の役目を古城会長がされた。通り一辺の音楽好きでは、なかなか出来ることではない。正に「オトキチ」そのものである。
 古城先生は団員をよくオコられた。いや団員ばかりではない。受診に来る患者に対しても遠慮なく雷を落すので「オコル先生」で評判である。その先生が数年前高響の総会で宣言された「私は皆んなによくオコル、オコルと言われますが、今後はもうオコルことはやめました。」とちょっとオコッタように言われた。イヤあまりマジメに言われたからそのように受け取れたかも知れない。
 しかしその後は本当にオコルのはやめられて、周囲の人の意見をよく入れられ、なごやかに団の運営に当たられた。出席率の悪い団員があればわざわざ出向いて様子を見に行かれるし、団で欲しい楽譜があればすぐ買って下さるし、団員の私的な面でも何かと心使いをして下さったものである。
 今度会長を退かれて名誉会長となられる、高響も一つの転機を迎えたわけである。団員も今後益々奮起せねばならない。今後も後見役として団のために御尽力の程、お願いしてやまぬ次第である。

白滝小中学校音楽教育演奏会
10月6日
2時
土佐郡大川村白滝礦業所白滝会舘

1 弦楽セレナーデ(モーツァルト)
2 木管五重奏曲 第1楽章(ハイドン)
3 ロマンス へ長調(ベートーヴェン)
      独奏 吉川安子
4 フルート協奏曲第2番二長調第1楽章(モーツァルト)
      独奏 甲藤卓雄
5 民謡集
   八木節・おてもやん・おはら節(小山清茂 編曲)
   土佐民謡集(武政英策 編曲)
6 アルルの女 第2組曲より(ビゼー)
     牧歌
     間奏曲
     メヌエット
     ファランドール
7 ラデツキー行進曲(ヨハン・シュトラウス)
8 ポルカ「狩」(ヨハン・シュトラウス)

      指揮 池中重彦

 
甲藤卓雄氏は土佐山田町出身。高知商業高校在学中より当団入団。林りり子女史に師事。高知フルート新人会主宰。
 この公演は白滝礦山閉山後間もない頃、白滝小中学校大野一郎先生より「僻地の児童生徒の音楽教育と沈滞している地元の人達のために演奏会を開こうと思い、役場や礦山残務の方々と相談している。是非協力してもらいたい。」との熱心な申し入れがあり実現した。
 予土国境で通称辞職坂と呼ばれている急坂もある山道をバスを連ねて遥々訪問したが、演奏会は山の子が澄んだ瞳を輝かせて熱心に聴いてくれ、又地元の人達の純朴な心からの厚いもてなしで、団員も気持ちよく演奏出来た。
 帰りはお土産のアルコールで一同愉快に語らいながら9時すぎ練習場へつき解散した。

その後送られて来た感想文より

・何十年振りかで楽しい音楽の世界に行った気になりました。先生方の努力に感謝いたします。
・待ち兼ねていた交響楽団が来て、初めてナマの演奏を聴き曲が進むにつれて、いつまでも聴いていたい思いでした。今後もこんな機会のあることを願っております。
・千秋の思いで待ち焦がれていた交響楽の演奏を大変楽しくきかせていただき、お世話して下さった方々と、はるばるこの山間僻地へ釆て下さった楽団の皆さんに心から御礼を申し上げ又来年も来て下さるよう。2時間半は短い時間でした。
・高響の演奏会へは学生時代よく聴きに行きました。8年振りで感激の涙が出ました。

 高知市文化祭二十年史より

 文化祭と高響        正木 暢

 懐古趣味ではないが、音楽的にいっても昔はよかった。いやよかったのではない、気楽に演奏ができたといった方がよい。交響楽団というものが珍しかった戦前、そして音楽についても飢餓状態であった終戦後の三、四年間、その頃はだれも音楽に対して、ひたむきな情熱を燃やしていて、演奏していても、熱い砂原へ水がしみ込むように聴衆の中へ音楽が吸い込まれる、するとその反応が暖かい水蒸気のように感動となって沸き上がってくる、それがじかにわかったものである。だが最近はFMラジオ、ステレオ、テレビ等のために安易に音楽が楽しめるようになり、同時に聴く方のレベルも上がって来た。このため演奏する方も昔のように、自分が楽しいから演奏する(極端にいえば俺は弾いているゾ)というような自己満足的な演奏では聴く方がとりあってくれなくなった。
 われわれはアマなので技量はプロにかなわない。だが熱心に練習したあとの発表会は聴く人になにかしら訴えるものとでもいうか心の通い合うものがある。生演奏の良さである。
 最近録音技術の発達と、ステレオのため完壁に近い演奏を聴くことが出来る現在では、生の音楽を聴くよりレコードの方がよい、という人もいる。もっともなことであるが、生演奏のダイナミックなボリュームと微妙な弦の響きの再生は、まだチョット無理なようである。ヨーロッパでは小都市でもそこの市民による楽団を持っている所が多いように聞いている。そして楽団の演奏会には多くの人々が集り演奏を心から楽しんでいるという。楽団の技量より心情的に自分達の楽団を誇りに思っているからであろう。市民のバックアップによるアマの楽団、高響もそういう楽団になりたいものである。現在わが国では交響楽団のある都市はまだ僅かなものである。この点だけでも私たちは自慢してよいではなかろうか。実際相当腕のある人でも交響楽団で演奏する機会の無い愛好家はドッサリいる。楽団の存在がどれだけ貴重なものであるかを改めて認識せねばならぬと思う。
 終戦直後を顧みると、楽団再出発当時は、何分食糧難・就職難の時代であったが、今の若い人たちには理解できぬかもわからぬが、楽器を持って街を歩いていると、すれ違う人に変な眼で見られたことを覚えている。たぶんよほどのひま人か、若しかすると少しオメデタイ人ぐらいに思ったかもしれない。いやほんとうにそう思われてもしかたない。昼間の仕事で疲れ切った身体を練習場へ運んで来て、またより一層疲れる音楽の練習をすることはよはどのマニアでないとできないことだから。しかし、不思議なことには練習が終ると、昼間の疲れがフッ飛んでかえって朗らかな気分で帰宅する。これだから止められないわけである。
 文化祭も二十回を経た。市の行事のうちで市民の文化団体にとっては今はもうなくてはならぬ行事となったようだ。高知交響楽団とのつながりもますます深くなり、毎年春の演奏会には必ずご厄介になっている。
 市民の文化活動も今後ますます盛んになるであろう。高響ももちろん一段と努力し、毎年の文化祭には欠かさず参加して彩りを添え、よりいっそう市民の音楽活動の原動力となるよう念願しているので多くのかたがたのあたたかいご援助を賜わりたいものである。

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