昭和21年(1946年)

疎開中の楽器を引き取り、再建の運動を始めた。

昭和20年8月15日、ポツダム宣言受諾により戦争の重圧から解き放されると同時に、人々は荒廃した心を癒そうとしてあらゆる芸術の分野に殺到した。高知フィルハーモニックオーケストラも高知交響楽団と改称していち早く戦後復興の一翼を担って立ち上がり、多くの人たちに心のうるおいと感銘を与えた。戦後一回目にようやく開いた音楽会のプログラムは、ちょっと触れば破れそうに薄い藁半紙(粗悪なトイレットペーパーと同じぐらいの紙質)に謄写版で印刷された粗末なただ一枚だけのものであった。

このように物資不足と就職難で、失業者、浮浪児が街にあふれ、大半の者がその日暮らしのような状態で、食糧買い出しとヤミ市場が隆盛を極めていた時期であったので、楽器を持って街を歩いていると、非難めいた奇異な眼で見られるような世相であったが、無性に音楽がやりたくて、空腹をこらえて練習に励んだものであった。

高響再建に大いに努力された徳弘寛氏は
「その当時私は職もなくブラブラしていたが、どうしても音楽がやりたくて古城先生宅へ伺い、高響再建の意向を聞き、数人の旧団員に呼びかけた。その人たちが口コミで他の旧団員に伝えたりして追々連絡が取れ、再建は軌道に乗った。」
と語って、団員集めに苦労した昔を懐かしがっていた。

昭和22年(1947年)

音楽祭
11月
日時不明
高知県立男子師範学校講堂

1 バグダッドの太守 序曲(ボァルヂュー)
2 青きドナウ(ヨハン・シュトラウス)
3 ハンガリア舞曲 第5番(ブラームス)

指揮 丸山和雄

戦後第一回演奏会

丸山和雄氏
昭和14年、東京音楽学校(現・東京芸大)本科作曲科卒。高知県立女子大学教授。

高響再発足にあたり、創立当時よりの指揮者浜田善三郎氏は渡満後ソ連に抑留され未帰還だし、高木雅老氏は静岡に転住していて指揮者が居なく、困った古城会長は町田昌直氏(顧問)に相談したところ、「丸山氏が教鞭を取っておられるが」と言われたので、早速団へ迎え入れた。

師範学校は終戦まで男子と女子と学校が別々に建てられていた。男子師範学校は空襲のため焼失したが、幸い講堂は鉄筋コンクリート造りであったため焼け残った。場所は旧浄通寺橋の北側で、現・大膳町公園内東南の隅にあった。
その時の会場の状況といえば、多くの焼夷弾直撃の跡がなまなましくアバタ面のようで、外壁はえぐられ、弾の燃え跡の真黒い油煙が多数あちらこちら、まだら模様にこびりついて迷彩をほどこしたようになっていた。ガラス戸は全部爆風にやられ、ギザギザの鋭い破片がくっついたままの鉄枠窓からは11月の寒い風が吹き込んでいた。
聴衆は生徒用の、木製で、一枚板でなくスノコのように桟を打ち付けた、5、6人掛けの長椅子に腰をかけ、腰掛のない人たちは周囲の壁にギッシリと沿って立ち、すし詰めになっていた。
団員もまた、狭いステージで、お互い肘が当たらぬように気を遣いながらも、熱のこもった演奏をしたものである。